日が暮れて三月もおしまいなので日記を書きます。
実は、動くものをうまく捉えられないようです。
なので映画やドラマや人の多い場所が少しばかり苦手です。
変わり続ける、という連続性から意味を掴むのが、そうとう不得手なのでしょう。
だから話すよりも書く方が楽だし、観るよりも読む方が楽です。
けども、ひっさしぶりに映画を観に行きました。
筆の運びには時系列があるから絵画は記録であり、レンズは目だから写真は記録である、とは藤澤つむぎが「見たことがない」って話の冒頭に書いたことなんですけれど、監督の「目」が見た景色を体感した気がまだしています。
主に4人の当事者が営む生活の柄と、周辺の景色の連続で展開されていくドキュメンタリーで、
なんというのかなあ、すごく面白かったんです。
石神井公園の四季折々、アリンコとか鳥とか花とかね、その辺がとても鮮烈で。
監督は、柔らかい、よく見える目を持っている人だなあ、と感じました。
レンズが目として、フィルムに焼き付けられたものが記憶とするならば、記憶の中に入り込んで、知らない生をほんのひととき生きる気持ちになる映画です。
音楽も大変素敵でした。
タブラなのか(適当に言っています)、打楽器の音と、あとはギターだったと思うんですけれど、この辺は音楽が好きな人に観てもらってぜひ感想を聞きたいところ。
とても普通で、当たり前のことですけれど。
たまに、本当にたまに、先が見えない「生」というやつに深いため息をつきたくなることもあるのですね。
将来必要になるカネの話を考えた時とかね。
自分だけの生を考えたってため息出ちゃうけども、死ぬまで生きるのは止まらないし、だとすればせめて「生きること」自体はなるべく困難でないといいなあとよく考えます。
「生きること」自体ってのは、例えば、「自分の財布と相談してその日の夕飯を決めること」で。
死んでしまうまで生きることはやめられないので、だからせめて、私も、私の隣も、できれば隣の隣くらいまでの「生きること」自体がなるべく困難でないといい。
願うだけではしんどいので、ひとつとして「知る」は、まずは自分が楽になる行動だと思います。
よ。
ええ。
白状すれば、お勉強のつもりで観に行った映画です。
それがまあ大変に面白かったので、とても嬉しい。
音楽と映像の融合が素敵で、映像それ自体も大変美しくて、登場する人々の暮らしに惹きつけられて、最後まで観入っておりました。
本当に、素敵な景色を見せてくれた宍戸監督に感謝します。
シネマジャックでは昨日が封切りだったようです。
来週も続けてかかるようですから、無理なく行ける方はぜひ足をお運びください。
そんで、どこかで会えたらお話ししましょうよ。
日記なのでダラダラと書きましたね。今日はこの辺で。